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個人的な生活と思索の記録です

あせらない自分

まとめていくつもの執筆作業を引き受けて、もろもろあってそのレビューが重なってしまっている。
こういうとき、以前なら焦って右往左往したことも多かったと思うが、いまはしない。理由の一つには、再三書いてきたが仲間がいるからだ。そして、その仲間との関係が例えぎくしゃくしたとしても、やはり焦らないのは、単純に「焦り」という選択肢を選んでいないからだ。
少しわかりにくいかもしれないが、人には常時「体験」がついて回っている。生きている限り、何かしらを体験している生き物なわけだ。詳しく言えば、あらゆるレベルでの思考、感情、感覚、行動といったものが体験にあたる。
今日、またもやピンチの中にあって、やはり「まずい、やばい」とつぶやきつつ、しかし焦っていないのは、焦りという感情の虜になることなく、自分が本来目指すべき事柄の遂行の方に集中するから。
もしくは、目的意識の中にいるから。

つまり、人は感情に振り回されることがままある。いい大人になっても、上述のことを十分理解していたとしても、やはりまだ感情におぼれることがある。わたしだって、ふだんから偉そうなことなどいえない。いやむしろ、内心流されまくりだ。
しかし、こうしてうまくいくときは、自分の選択基準を意識し、体験を1つ1つ区別して優先事項を選ぶことができていることを知っている。

しかし、人は生身、人でしかない。わかってはいても、ときには感情のままに生きていたい時期もある。そう、永遠ではないことはわかっているのだ。それでもなお、わざわざそれを選ぶ人は、とくに無意識のまま感情に流されることを選ぶのは、感情というものは善いものであろうと悪いものであろうと、浸ると心地のよいものだからだ。

心地のよいものばかりを選ぶのは心の中の「悪魔」に操られている瞬間。決して人を攻撃したり、拒否するなどといったいわゆる悪意ある行動ではなく、自分を、いうなれば甘やかす行為こそが「悪魔」に操られている瞬間なのではないか。

感情だけではない。どうしてもやめられないパターン化されたふるまい、身体にこびりついた固定的な考えかた。これらも程度の差はあるかもしれないが同様だ。特に無意識のまま表出することはそのまま悪だ。 かつてわたしは、言うことが厳しすぎるといわれていたりしたのでやや心配だ。この考えをここでいうことは許されているだろうか。

それでもなお自らにも問うてみたい。

「悪魔」とともにいる自分は、ビジョンを実現するだろうか。